=トピックス・お知らせ=
19日大きな地震がありました。かなり揺れて家がミシミシいいましたが…家族ともども無事です。ご心配おかけしてすみません。常連のsakeさんは村上の酒屋さんなのですが…大丈夫かな?
19日大きな地震がありました。かなり揺れて家がミシミシいいましたが…家族ともども無事です。ご心配おかけしてすみません。常連のsakeさんは村上の酒屋さんなのですが…大丈夫かな?
猛暑の夏からお盆を終え秋を迎えようとしています。相変わらずの1/200大和です。
スターウォーズでもあったシュチエーションですが…「ミサイル(爆弾)を心臓部に通じる通気口に落とせば形勢逆転一気に叩き潰すことができる」ってのがあります。大和の場合は一体どうだったんでしょう???
↑実はこのあたりのことが実に良く考えられていて、図面を見ると各ボイラーからの排気~煙突までのいわゆる「煙路は」かなり寝そべった形になっています。煙突自体も改めて見てみるとかなり斜めになっていてますね。かなり攻撃しにくい、攻撃しても心臓部であるボイラーへの被害を最小にしようとする設計です。加えて赤色の部分…分厚い装甲に囲まれたバイタルパートを煙路が突き抜ける部分はどうしても弱点になるので有名な「蜂の巣甲鈑」…厚き40センチ弱で十センチ強の孔が開いている…が施されていました。先回からお盆かけてこの「ボイラー周りから煙路あたり」…↑図の水色の部分を中心とする部分…を検証しパーツ化を進めています。…ちなみにこの図面は「戦艦武蔵建造記録(アテネ書房)」のものです。(図面だけで言ったら「戦艦大和設計と建造(アテネ書房)」より良いです。)
↑それぞれ配管が微妙に異なる12のボイラーのパーツ化。さて、ここからいよいよ煙路部分…でよくよく図面を見てみると…
↑C甲板とD甲板の間の一見スカスカの煙路部分…ここが曲者でした。
まずCの甲板バイタルパートの分厚い装甲部分です。緑色の部分が煙の筒…この位置にそれぞれハチの巣があったと思われます。水色の部分は吸気路、そしてピンクが上層からの階段の上り口、赤が下層(D)への降り口…降り口と登り口が小さな壁に囲まれてつづら折りのようになっているのが確認できます、これも防御上の理由からでしょうね。
↑続いてD甲板部分の図面…左側に黄色で示した部分に(C図面には一部描かれていませんが)上りと下りと同一になった…突き抜けの梯子と思われる部分があったりして面白いです…で、よくよく見ていて「おやっ?」と思いました。実は上層Cからの階段の降り口(Cへの登り口)の位置が描かれていないのでした。…で、もしかするとさらにその下の缶(ボイラー)室への階段も描かれていないのでは???
↑「小さな壁で囲まれた廊室で階段が接続」「各ボイラー室は独立していた」ということからもしかするとこの位置にボイラー室への階段があったのではないかと思われる位置を特定していきました。
↑梯子が各ボイラー室の指揮所の所にぴったりと着く感じになります。それぞれの梯子の角度もほぼ同一になります。…おそらくこの推測で間違いないと思います。それにしても急な階段ですね。(戦艦の階段は防御上の理由で開口部を小さくするため急になるといわれていますが…けがをして逃げる時のことを考えるとぞっとしますね。)
↑CとD甲板の描き込みを開始。…今度は吸気路の取り回しの考察で一苦労…
↑3D化して煙路と吸気路、壁の干渉がないか確認しながら進めています。
更新が遅れていることに加え大きな地震があったりして、ご心配をおかけしています。いたって健康に無事に活動していますのでご安心を…(笑)作業は缶室(罐室)と缶(罐…かま…ボイラー)です。
大和の罐室は12ありました。大和には4つのスクリューがあることからわかると思いますが、機関は4組…でボイラーも3罐×4組というとでした。具体的には↑右舷中央のユニットでは1号罐、5号罐、9号罐で一つの分掌区になっていて…このユニットの場合9号罐室に指揮所がありました。
人員的には1号罐、5号罐、9号罐の分掌区では士官分隊士以下罐長クラスが4人各3つの罐に班長以下作業員が12人着きました。…つまり1つの分掌区で40人…これが4組で…罐要員だけでで160人おられたということになります。
↑罐の脚を乗せる部分のパーツだけでA4二枚になりそう。
↑罐のパーツです。赤枠部分はお好みで使用する「罐の内側パーツ」…罐の内側はレンガで囲まれでいました。(ちなみにレンガと外側鉄板の間には「石綿」…悪名高きアスベストの層がありました。)青枠部分は罐の正面部分になりますが…
↑蒸気の配管が赤線のように走っていて、しかも後方に向けて少しずつ下がってく…(冷えると水になるため勾配を設ける)と思われますので…
↑ボイラー正面のパーツは配管出しの方向と高さが6種類になります…
↑ボイラーを動かすための補機といわれる装置類です。当時どのような補機が使われたのはなかなか明確ではありませんが…できるだけ調べて描きました…でもパーツは小さくなりほとんど見えなくなります。
↑補機類の接する壁です。補機は蒸気を動力とする小型タービン仕様のものやその排熱を利用するものとなるので、そのための配管を行っています。…配管は各分掌区でいざというときに切り替えができるようになっていたり、浸水時や故障時に閉鎖できるようにしてあったり、余分な水(ビルジ)を抜いたりの装置がところどころについていました。
↑一つの罐室にひとつづつ「罐操縦室(4,6,9罐室では兼分掌指揮所)」というのがあったようですが…人の出入り口がここにあると都合が良いのでおそらくそのようになっていたのではないかと思いドアを描きこんでいます。さらに日誌記帳台のような机と棚、伝声管や時計、傾斜計各種切り替え装置のようなものを描いています。ちなみに大和では伝声管もありましたが「毒ガス攻撃」に備えて電話(も配備されていたそうです)…完成時には見えなくなる部分なんですけど…汗
↑作業が煮詰まった時などは気晴らしにネットを徘徊…大和で使用されていたと思われる日用雑貨などが見つかるとせっせと描きこみをしてパーツとしてストックしています。…洗濯用たらいとか(笑)
やれ「当時は計算尺と算盤だけで」とか「計算尺しかない時代に…」とかコメントをもらうたびに「そーだよねスゴイよね」って頷いていましたが…昭和40年生まれで、そもそも計算尺なんて見たこともない世代…なにも知らないのにただただ頷いていてはチコちゃんに叱られます。
今回大和を作るにあたり歴史背景としても是非「計算尺」なるものを調べておかねば…と思い立ったのであります。
↑計算尺…どうやら、こんな感じのようです。(写真のものはHEMMI No.250というものです。ノーベル物理学賞受賞の益川敏英様が使用していたのと同じモデルです。)…でもこのタイプ(両面型)は主に戦後になって作られたものらしいです。
…では大和やゼロ戦の技術者はどんな計算尺を使っていたのか…
ネットで検索すると計算尺の代名詞のように「HEMMI」という名称が出てきます。HEMMIヘンミというのは逸見治郎が欧米視察(フランス)の土産として政府の官僚の方から手に入れたものを参考に素材を「竹」で作った計算尺の会社…逸見製作所の製品に名付けられたものです。(現在のヘンミ計算尺…当時はほかにも富士計算尺やRicohなどのメーカーがあったようです)
日本の計算尺は「ここから始まった」ようです。
↑これが大正時代初期のHEMMIのモデル…[SUN HEMMI]ではなく[J.HENMI] です。欧米から必死に技術の導入を行っていたころですがシッカリと「逸見式専売特許22139」ってあります。
尺の構成はホントに初期の単純シンプルな表ABCD尺と中間の滑尺の裏面がS(Sin)L(Log)T(Tan)尺というマンハイム型というものです。掛け算割り算、三角関数の計算に強いタイプです。
日本の竹製+セルロイドのものは欧米の木+セルロイドのものより湿度による変形に強いということで実に当時の「世界シェアの80%」を日本製が占めていたといわれています。(実は計算尺の優等生であるドイツ製は第一次大戦の関係やらなんやらで輸出規制でノーカウントになっているだけとか…)
その後計算尺はリッツ式やダルムシュタット式といわれる発達した尺の構成になりさらにスタジア用、電気技師用、高精度用、軍用、ビジネス用など専門分野に特化したものが派生していきます。そろばん文化のない西洋(特に通貨や数量換算の需要の多いイギリスなどでは必需品)だったようです。(今でもヘンミのビンテージのものはイギリス辺りで多いみたい)
さてそんな「計算尺」ですが…当時の技術者はどんなものを使用していたのでしょうか。
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その1 「風立ちぬ」…堀越二郎氏の場合
ゼロ戦の設計で有名な堀越二郎氏が「戦前から愛用していた計算尺」なるものが映画「風立ちぬ」公開の際に所沢で記念展示されたようです。
↑いろいろと探し回り手に入れました。どうやらこのタイプ J.HEMMI "SUN" HEMMI No.1/1 かな。長さは28センチです。 J.HEMMI "SUN"とあることで戦前タイプのもので1913~1929で大正2年から昭和4年に製造たものでさらに前期型といわれるグループのものです。シンプルなマンハイム型です。
堀越二郎(1903年- 1982年)の年表と合わせると…おそらく大学(東京帝国大学)か三菱入社頃に手に入れたのかなと思います。
国会図書館の計算尺の本を読んだりして使い方をあれこれ勉強したりした結果、一定の割合での線の変化みたいなものを連続的にとらえるのにはとても適している感じがしました。ゼロ戦の機体の美しく洗練されたカーブはもしかするとの計算尺ならではのものなのかなとも思いました。
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その2 「船頭のサオのようなものです」…内藤多仲氏の場合
「東京タワー」を設計し「耐震構造の父 ・塔博士」と呼ばれた内藤多仲氏が生まれたのは堀越二郎の生まれた1903年をさかのぼること17年の1886年…実は内藤多仲氏の方が17歳も年上なんですね。当然生まれたころには「日本製の計算尺」なんてありません。のちに「ポケットの計算尺一つあれば新幹線で大阪に行く間に構造設計が1棟分できる」と語った氏は一体どんな計算尺を使ったていたのか?
実は氏の記念展示会が開催されたときに旧制中学校生徒用計算尺 HEMMI No.2640というものが展示されたそうです。
しかし「恩師からのヨーロッパ土産でもらったポケット型の小さな計算尺」と語っていたということでちょっと矛盾が生じます。そこでいろいろと調べてみると…
東京タワーが完成間近の昭和33年の週刊誌の記事を見つけました。と同時にそれらしき計算尺を入手しました。長さは15センチです。
「設計の計算は大正2年以来、半世紀も使い続けていた愛用の小型計算尺一つでやる…床に落としてガラスが割れても私には船頭のサオのようなもんです」とありました。ほんとにかわいい感じです。(いや女性の方じゃなく…)
この計算尺… メーカー名はD&P(番号は29と刻印されていますが…氏の使用したものは28かも)といいます。現在のアリストという会社の設立当初の名前がD&Pらしいです。こちらも大きさこそ違いますが堀越二郎氏のHEMMIと同じくシンプルな尺構成のマンハイム型です。
やはり三角関数でタワーの斜めの脚を設計、感覚的にとらえるにはとても良いツールかなと感じました。
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二人とも分野こそ違いますが初期のシンプルな計算尺を大切に使っていたことがわかります。大正から昭和にかけてはタイガー計算器という機械的な計算器もあったので本格的な細かい計算はそちらに任せて、もっぱら計算尺はアイデアを大雑把に検証したり構造のヒントを得るためのスケッチブックのようなツールだったのかもしれません。
現代の関数電卓も今回実際に使って色々と試したのですが小数点が何ケタも出てくるのはすごいですが、それが邪魔になることもあります。ご存知の通り昭和60年代には「電卓」が発売され、まさに「アッと」言う間に計算尺は姿を消していきました。(Apollo計画の初期のころは緊急用にピケット社の計算尺が積み込まれ、実際に使われたこともあった…がApollo計画の後期では司令船のナビゲートシステムより宇宙飛行士のポケットに入ったHP社の電卓の方がはるかに性能が良かった。という逸話も…)しかしながら大きくイメージで数字をとらえることのできる計算尺は意外と便利なものだと思いました。
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で、次回にでも先人たちの苦労に敬意を表して「実際に計算尺を使ってペーパークラフト大和のパーツの一つでも作って」みたいと思います。実は意外と「展開図の作成」に相性のいい道具だったりして…
1/200 大和 YAMATOです。
まだまだ二重底のパーツ化が終わっていませんが、配管等関連する部分もあるので二重底の上層部に配置される「ロ号艦本式缶」を考察しました。先回の続き12基あるボイラーですね。
大和は当時の先端技術を注ぎ込んだ面もありますが機関に関しては当時の最先端技術のディーゼル機関(内燃機関)ではなく安定していて実績のある「ロ号艦本式缶」(外燃機関)を採用していました。
この「ロ号艦本式缶」というのは呉の大和ミュージアムに展示されている「金剛で使用されたヤーロー缶(英yarrow社)」の発展したものなのですが…実は当時は一口で「ロ号艦本式缶」といっても様々な型があったようです。
↑大和ミュージアムの金剛ヤーロー缶。三角に組み上げられた水管を熱して蒸気を得る仕組みですね。ただし大和では「石炭」をくべるのではなく「重油」を燃焼させるタイプだったそうです。
↑ネットでいろいろ探しましたが正確なものが無く苦労しました。行きついたのは「国会図書館」のページです。デジタル公開している当時の資料「軍艦機関計画一班. 巻ノ2 図(1919年)」を見つけました。大和の建造計画が1936年なのでちょっと古いですが基本形はこんな感じです。
この資料のものは混焼缶といって上段(円形のコーン)3つで重油、下段(四角い斜めの扉)3つで石炭を燃やすタイプです。石炭の燃やしカスを掃除する扉が最下部に三つあることから「ミュージアム」の燃焼部分の模型のモデルになったタイプかなと思います。さらに内部を再現しましたとうたった模型や内部を再現したイラストでもよく見かけるものはこのタイプのものが多いです。
でも大和は「重油専焼」タイプだったというので…残念
↑こちらが「重油専焼」タイプです。(石炭を燃やす場合あまり奥には石炭をくべられないので長さが短いのですが、重油タイプはそれより長くなっています。よく見ると左右の丸い筒状の「水ドラム」に着いた四角い小さな足が4つから6つになっています。)これをもとにイラレで描きこみをしてみました。
↑こんな感じ…ペーパークラフトのパーツになると幅が3センチに満たないくらいとなるのでゴチャツとしてほとんどディテールがつぶれるのですが詳しく描いてみました。
↑メンテナンス用の足場の位置を書き込んで人物シルエットを配置。別の資料から缶室のフレームの位置と缶の台の大きさがわかっているので当てはめてみます。
3Dスケッチでも確認…まぁ問題ないといえば問題ないような気がするのですが…缶の下のスペースとフレームの位置と足の数にちょっと無理が…そこで再び資料を探します。すると…
NHKの特番で海底の武蔵のボイラーが映ったシーンを発見。どうやら「一度発生させた蒸気を再度、缶に戻して過熱させる」という「過熱器付きのタイプ」だったようです。過熱器は左右の水管に差し込む感じで正面から見て「ハ」の字に取り付けられていました。
↑国会図書館のページから「国産機械図集(1939)」とネット拾い物…NHK特番の画像と合わせると、どうもこのタイプではないかと(水管の上に空気を温める管も描かれているが…) 注意するのはバーナーの数…戦時中の文書で機密に関わるものはわざと寸法や図の一部を書き換えたりしているらしいので若干の疑問は残るけど再度これをもとに描きます。
↑ちょっと「こわもて」になってしまいましたがこんな感じでしょうか。それとNHKの画像(掲載は控えます)から足の数は定説の6個ではなく…胴長の重油専焼缶にも関わらず前端と後端の左右で4個だったことが判明。
↑土台の位置とフレームの位置に合わせるとなんとピッタリ!…ピッタリ収まりはしますが左右と後ろのスペースは人ひとりが通れるくらい…「詰め込んだ感じ」ですね。メンテナンスとか大変そう。
以上がここ2か月くらいかけて出した「大和のロ号艦本式缶」に対するuhu02の回答でした。